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一礼して職員室を出ると、廊下はすでに薄暗くなりつつあった。
下校時刻が近い。あとは部室に残っているはずの唯を適当に追い出して鍵をかけて帰る以外にやることはない。廊下にまで染みこんできた寒さに一度身震いしてから、梓は慣れた道を戻り始めた。
吹奏楽部の部室を通りがかると、部員たちが帰ったばかりなのだろう、バネを解放するためにいくつものメトロノームが動きっぱなしで放置されていた。バラバラのタイミングで混ざりあって不規則に刻まれる音の中から一つを耳で気紛れに選びとり、歩くテンポをそれに合わせて、少し上げる。廊下を通りすぎてもそのまま、階段を半ば駆け上がるようにして部室にたどり着き、ドアノブに手を―かけたところでふと思いつき、そっとドアノブをひねり、出来る限り静かに扉を押し開ける。唯はすぐに見つかった。奥の机の、いつもの定位置。ただし、
「ぐー……」
寝ていた。
「起き…!」
反射的に叫びかけて、踏みとどまる。他の先輩方が用事で先に帰ってしまって一人きりでは勉強が続いていないのは半ば予想はしていたけれどもでもそうだったとしてももしかしてギターの練習とかしていてくれたらといった思いを全て裏切ってまさか机に突っ伏して寝ているなんてと突っ込みたいのを苦労して我慢して、急に起こすこともないと思い直す。
(一人で待っててくれたことには変わらないんだから)
足音を立てないように奥へと進む。沈みかけの夕陽からの光は壁に遮られて長い影を部室に落としている。進むにつれて窓枠から真っ直ぐ伸びた影が橙色の光に照らされた右手の壁に複雑な形を描くのは、髪に櫛を入れる様子を思わせた。
部屋の隅の窓際に立つと、唯の頭が自分の影に隠れた。起きる様子はない。しばらく寝顔を見ていたもののなんだかのぞき見をしているような気分になり、梓は目を逸らした。薄暗さのなかで一人佇む。
不意に空しさがこみ上げてくる。初めてこの部室にやってきたとき、漠然と手に入ると思っていたものがあったはずだった。それがなんだったかももはや思い出せはしないが、それがそのまま手に入ったわけではないことは確かだ。誰に対しても誇れるはずの2年間の時間を、誰かに説明できる気がしない。手に入ったものとは例えば、背後で眠りこけている、頼りにならない先輩のことだろうか?それは違うと感じた。
(何時間一緒に居たって、唯先輩が私の所有物みたいになるわけじゃないもの)
それにきっと、この人は誰のものにもならない人だ。
普段は楽器やおしゃべりにかき消されてほとんど意識することのないエアーポンプの音が今は大きく聞こえる。中を泳ぐ愛しい小さな生き物に対して―現時点では―不釣合に大きいように思われる水槽の底では細い水草が曖昧な流れにゆらめいていた。陽の光が水面へと登っていく無数の小さな泡の一つ一つを透き通していた。
窓の外には橙色に染まった校門までの道が広がっている。こんな時間だから生徒たちは背中しか見えない。みな校門を抜けてすぐに見えなくなっていく。さらに遠く、暗さに輪郭をぼやけさせつつある町並みは一枚の絵のようでもある。次第に暗くなっていることは分かっていても、一目見ただけでは変化していることは感じ取れない。陽の沈む速度とはそういった速度だ。
梓はゆっくりと振り向いて問い掛けた。
「唯先輩は、なにがあると思って軽音部に入ったんですか……?」
彼女はゆっくりと目を開けた。姿勢は変えず首だけ回して、優しい目で微笑みかけてくる。或いはそれは単に眠たい目なのかもしれなかったが。
(起きてたんですか?)
なんとなくそう聞けないままでいると、唯は立ち上がって梓の手を取った。胸の前に持ち上げて、包み込むように手を握ってくる。背伸び一つ分の身長差を自然と意識する。
「忘れちゃった」
「唯先輩も?」
「でもね、別のものがあったよ。それはないはずのものっていうか、本当は本当にないものなのかもしれないけど、それってここに、代わりのものがあるっていうんじゃなくて、あったんだよ」
「……なんだかよく分かりませんけど」
でもそれは嘘で、本当は分かっている、と思った。
そのままの姿勢で、じっと向きあう。いつも根拠のない自信に輝いていた瞳、太陽を閉じ込めたようなその瞳に見つめられて、ひとつ気付くことがあった。
(この距離…)
思えば、会うたび飛び込んで抱きついてくるこの先輩とこの距離で向かい合うことはほとんどなかった気がする。この距離に居ても、いつの間にかいなくなってしまったり、自分からそっぽを向いてしまったりした。演奏のときとも違う、近づくことも離れることも出来る距離。
「唯先輩……」
慣れた呼び名。だが、もうすぐこの人は自分の先輩ではなくなる。それどころかこの人のことだから大学で留年なんかして、自分と同級生になってしまうかも。そうでなくても、高校生でいる間は限りなく大きな差だった一年は、十年、二十年と経てば誤差のようなものになってしまうに違いない。
(それでも呼んじゃうのかな、今と同じみたいに)
呼ぶだろう、と思った。
寂しいような、虚しいような、だけど同時に誇らしいような気持ちが溢れた。自分の中に収まりきらないそれを出来ることならこの部屋に刻みつけておきたかった。テープに封じた音のように、いつかは擦り切れて、ただの傷と見分けがつかなくなってしまうとしても。
太陽はもっとも低い位置に差し掛かっていた。陽の光は部屋を暖める役には立っていなかったが、少なくとも、部屋の中の物を区別せず一つのものとして照らしていた。キーホルダーのチェーンに金色の光が絡みついて零れた。
「帰ろう?」
「はいっ」
そうして、陽が落ちるまでには校舎を出た。